湿地を畑に変えた代償――オランダ干拓の現実
湿地を農地に変えたら国土の約14%が水没した話。 オランダ初期の開拓は、沼の水を排水するほど土地が沈んでいくジレンマの連続でした。なぜ水没を招いてしまったのか?過酷な民衆の生活史とその顛末を解説します。
湿地を農地に変えたら国土の約14%が水没した話
現在のアムステルダム・ロッテルダム・ユトレヒトなど、主要都市が集まるオランダ西部地域は中世初期までほとんど湿地帯だった。

このエリアは、まるで水分を極限まで吸い込んだ巨大なスポンジだ。生い茂るミズゴケや湿地性の樹木、蛇行した川、そして未開の広大な湿原が、見渡す限りの地平線まで続いていた。
そんな場所に、10世紀ごろから民衆はやってきた。
なぜなら水はけがよい地域で人口が急増したからだ。既存の土地だけでは全員を養うための穀物を生産する土地が物理的に足りなくなってしまった。
また未開の地のため、中央権力の支配が及んでいないというメリットもあった。つまり、民衆が自発的・自治的に開墾を進めることができたのだ。
民衆はとにかく湿地帯を穀物が育つような土地に置換する必要があった。
記事の根拠・参考文献
①Jan van Doesburg
Medieval settlement dynamics in peatland reclamations in the western, central, and northern Netherlands
Settlement Change Across Medieval Europe: Old Paradigms and New Vistas (Ruralia XII), pp. 207-222 (16 pages)
https://www.sidestone.com/books/settlement-change-across-medieval-europe
②Marcel IJsselstijn en Jeroen Zomer
Van hoog naar laag: Een alternatief model voor veenontginningen?
Bulletin KNOB Vol. 123, No. 4 (2024), pp. 20-32 (13 pages)
https://bulletin.knob.nl/index.php/knob/en/article/view/839
③J. van Leeuwen
Middeleeuws Medemblik: Een centrum in de periferie. Archeologisch onderzoek naar de (vroeg)middeleeuwse handelsnederzetting en het oudste regionale centrum van West-Friesland in de periode 675-1289
West-Friese Archeologische Rapporten Vol. 61 (2014), pp. 1-351 (351 pages)
湿地を耕作地へ:排水が生んだ穀物と余剰
入植者たちは湿地帯の水を抜くため、まずは蛇行した川を手掘りで浚渫した。泥炭川と呼ばれるこの川は高低差がないうえ、枯れた草木が未分解のまま堆積し続けており、非常に水の流れが停滞していた。
浚渫によって川の水位を下げて流れを確保したのち、川に対して直角に無数の排水溝を掘ることで湿地の水を川へと流し込んだ。
こうして湿原から水が抜け、穀物を育てる土地が整った。しかも、表層の水分が抜けて泥炭が乾燥・酸化したことで、長年眠っていた豊かな栄養素(窒素やリンなど)が地表へ放出された。
これにより、オオムギやライムギに適した肥沃な耕作地へ変貌したのだ。
この開拓がもたらした成果は人口動態にも現れている。
開墾地からの食料供給の拡大に伴い、オランダ西部の拠点メーデムブリク(Medemblik)の人口は、9世紀末から11世紀にかけて、120〜200人から360〜600人の規模へと成長した。

自給自足を大幅に上回る穀物の余剰が生まれたからこそ、交易や手工業に従事する人々を養うことができたのだ。
掘るほど土地が沈む...泥炭地の宿命
排水システムを構築した当初は、確かに肥沃な耕作地だった。
しかし、それは終わりゆく運命でもあった。栄養素が放出される過程は泥炭の乾燥と酸化である。酸化とはすなわち、地面がガスとなって無くなるということだ。
年々、地表高度が低下したことで周囲の水位との高低差がなくなり、排水溝を掘っても水が排出されなくなったのだ。
沈下したのは畑だけではない。家屋の土台も同様に沈んでいった。
当時の一般的な家は、粘土を敷いた床と暖を取り調理を行うための暖炉が、直接地面に作られていた。地面が沈下すると床下から冷たい泥水が染み出した。最悪の場合、床は浸水し暖炉の火が消えた。
人々は近くの湿地から泥炭ブロックや乾いた粘土を切り出して運び、床や暖炉の土台を何度もかさ上げして補修を繰り返した。しかし、それにもいずれ限界が訪れる。
こうなっては、長年暮らした土地でも諦めるしかない。民衆は集落ごとの移転を余儀なくされた。
実際、当初は泥炭川沿いの開墾から始まった集落が、数十年から百年ほどのサイクルで移転した考古学的証拠が複数確認されている。
現代にもその痕跡はある。石造の教会や墓地は集落が移転しても取り残されたため、現在の村から数百メートル〜数キロメートル離れた場所に孤立した姿を留めている。
耕作地の限界
集落の移転によって農耕を続けた民衆も、12世紀から13世紀にかけて最終的な限界に直面した。これまでの対処では維持できない構造的な要因が重なったためである。
第一は移転先の消失だ。泥炭地の奥地へ転々としながら開墾を続けた結果、別の河川や湖沼、あるいは隣接する集落から伸びてきた開墾地と衝突し、未開の泥炭地が失われた。
第二は沈下の広域化と水系の変化だ。地盤沈下が地域全体へ波及したことに加え、ゾイデル海の拡大などに伴う海水の侵入によって、一帯は水面下近くまで低下していった。
ゾイデル海(Zuiderzee)
かつてオランダ中部に存在した広大な浅い内海。度重なる高潮や嵐によって淡水湖が削られ、北海と繋がって巨大な海へと変貌した。20世紀の堤防建設により、現在は淡水のエイセル湖(IJsselmeer)となっている。

この環境変動を受け、民衆は生活スタイルの変更を余儀なくされた。
点在していた集落の民衆は、地域共同体全体を動員した大規模な堤防建設に踏み切り、地盤沈下への対策を図った。
しかし、農耕が可能な地域の減少を回復することは出来なかった...
農耕が出来なくなったあとの世界
13世紀以降、地盤沈下によって湿潤化した土地でも牧畜や酪農は行うことができた。よって、湿潤な土壌でも成立する牧草地への転換、すなわち酪農や放牧を中心とする生活構造へと移行していったのである。
民衆はそこで得られるバターやチーズ、ウールを輸出し、生きるための穀物をオランダ外から輸入する交易も行った。
その後、16世紀末から大都市アムステルダムが急速に発展を遂げる。その需要に応えるため、民衆はオランダ外への交易から、アムステルダム向けの商業的酪農へと業態を再び変換させる。
17世紀以降には大規模に干拓を行い、かつての湖を広大な陸地へと再生させることができた。もともと継続していた牧畜や酪農は、こうして爆発的な成長を遂げていくことになる。
水没被害の全貌
これまで見てきたように、農耕による排水や高潮や嵐による災害によって、広大な土地が失われた。この喪失と回復の総収支を算出した研究がある。これによれば、1200年頃から1900年にかけて失われた土地は約50万〜60万ヘクタールにのぼる。
現代オランダの総面積は約419万ヘクタールだ。
12世紀にはまだオランダという国家は無い。よって厳密な領域は異なるものの、敢えて現代の国土面積と比較すると14%が水没した計算になる。
一方、1200年頃から現代までの干拓事業によって獲得・回復された土地は約40万ヘクタールにとどまる。近代以降の高度な干拓技術をもってしても、過去に失われた陸地面積を完全には取り戻せていないのだ。
土地の規模感
失われた土地の60万ヘクタールは、日本でいうと茨城県や山口県と同じ規模だ。
・山口県:約61.1万ヘクタール
・茨城県:約61.0万ヘクタール
なお、現代オランダの総面積である約419万ヘクタールは、九州の広さとほぼ同じだ。