戦時下に低金利の公債を大量発行できた理由:17世紀オランダ財政史
八十年戦争の最中でありながら財政的に成功を収めた必要十分条件を探求する。近世のミクロな欧州経済史。
1.冒頭
2.前史~戦争第1期(1482~1587年)
3.収束~休戦期(1588~1620年)
4.戦争第2期(1621~1648年)
5.結言
1.冒頭
オランダが独立国として歩み始めた当初は、課題山積であった。
絶対君主であるスペイン帝国に対して軍事的に抵抗し、連邦共和国としての議会体制を整え、そして国を運営するための財政システムを構築する必要があった。
本記事では、財政システムについて深掘りする。
当時のオランダ財政システムは、経済の一般論から逸脱した特異な状態であり、後世において非常に優秀であると評価されてきた。
経済の一般論はこうだ。
戦争等の有事の際、財政難により公債が紙切れになることを警戒した投資家が公債を売却する。一方で、戦争当事国は戦費捻出のため公債を大量発行する。これにより市場には買い手がつかない公債が過剰供給され、価格は暴落し、金利は上昇する。
しかしオランダの特異性は、独立戦争開始から終結の80年(1568年~1648年)間に及ぶその大半が戦時下であったにもかかわらず、一般論を完全に覆したことにある。
彼らは公債を発行し続けて借金を10倍以上に膨張させながらも、金利をほぼ2分の1に(12%から5%へ)低下させていった。
財政体質的な観点から言えばかなりの成功を収めたと言える。
この特異性による成功は事実である。ではなぜ、成功することができたのか?
ローカルな視点に基づく歴史を掘り下げることで、問いに対する回答を手繰り寄せよう。
オランダとは
上記の「オランダ」は、厳密には独立後のオランダ連邦共和国を構成する「ホラント州」という有力地方政府のことである。
以下では、正確に「ホラント州」と「オランダ連邦共和国(オランダ)」表記を分けて記述する。
ホラント州とはオランダの7つの州の内の1つであり、経済力・人口・政治的影響力の全てにおいて他を圧倒した。17世紀を通じてオランダ国家予算の約6割をホラント州のみで負担していた。
記事の根拠・参考文献
Oscar Gelderblom and Joost Jonker
Public Finance and Economic Growth: The Case of Holland in the Seventeenth Century
The Journal of Economic History Vol. 71, No. 1 (MARCH 2011), pp. 1-39 (39 pages)
まずはホラント州の特異性を、数値で理解できる図を見て欲しい。


これには注目すべき特徴がある。スペインとの戦時中である1590〜1609年、そして1621〜1648年にかけて債務総額が急上昇している(Fig.1)。しかし、金利は半減している(Fig.2)。
Figの注釈
戦争開始の1568年から1589年の統計データは残されていない。
終身年金:購入者が生存中に毎年利息(年金)が支払われる。元本返金を行わない為、金利は高く設定される。
償還可能年金公債:満期の定めがない公債だが、政府側の都合が良いタイミングで、いつでも購入者に対して一方的に元本返金を行える。
短期手形:契約上は半年〜1年程度の期限。しかし、実体としては購入者が望むタイミングで、いつでも元本返金の請求が可能だった。
では、なぜこのようなキャッシュフローを辿ることになったのかを追っていこう。ただし、話はグラフに表示されている1590年代より前に遡る。
1590年代から時代を切り取ると、スマートに財政システムを稼働させているかのように見えるが、前史はそうではなかった。
1568年に始まった対スペインの八十年戦争(オランダ独立戦争)当初は、財政破綻寸前まで追い込まれた過去があったのだ。
さらに重要なことに、オランダの財政システムの萌芽が見えたのは1482年なのである。
2.前史~戦争第1期(1482~1587年)
1482年、オランダは国としてまとまっていなかった。そしてホラント州としても統一感はなかった。
そんな中、ホラント州内で規模が大きい6つの都市が共同で公債を売り出し、州政府の代理として資金を集めていた。
都市同士の共同による資金調達が発展することで、その後約70年の試行錯誤を経て1550年代に安定した財政基盤を確立するに至った。
資金調達を現地で請け負ったのは地元の徴税官だった。つまり税金徴収が本業である者が人々に公債を直接販売したのだ。
自分たちで集めた税収の中から、投資家に対する利子の支払いと元本償還の実務すべてを一手に担った。
しかし、1555年からオランダ地域を支配することとなったスペイン国王フェリペ2世によって状況は一変する。国王が増税を要求したのだ。
この時、オランダ地域は不景気であり、カトリックとプロテスタントの宗教的な緊張もあった。
これらの複合要因によってオランダ独立戦争が勃発する。戦争はホラント州を財政危機へと一気に追いこんだ。
州は軍人や商人に対して短期手形を発行することで高金利の融資を受け、戦争を継続するほかなかった。
1572年には、ついに投資家への利息払いを停止せざるを得なくなる。
利息払いを強硬に迫る投資家に対しては、国外逃亡したカトリック亡命者の資産や、没収した教会財産を補償に充てる緊急措置をとった。
財政危機は、各都市と州政府の力関係をも劇的に変化させた。
逼迫する財政を少しでも緩和するため、州議会は1574年、それまで各都市が徴収していた地方消費税の権限を都市側から強制的に接収したのである。
この時は戦争を生き延びるための緊急措置に過ぎなかった。だが、場当たりの制度変更が財政構造を決定的に変えることになる。
結果として、それまで各都市でバラバラに徴収されていた地方消費税は、州全体の統一税へと抜本的に改組されたのだ。
しかし、財政構造を変えたところでそもそも税の原資が少なく税収のみでは立ち行かない。
州政府は依然として、短期手形による軍人や商人からの高金利な融資に依存を続けるしかなかった。
3.収束~休戦期(1588~1620年)
耐え忍んで迎えた1588年、ホラント州を取り巻く環境は劇的に変化した。
スペイン帝国の無敵艦隊がイングランド海軍によって打ち破られ、オランダに対するスペイン陸軍の進撃が停止したのだ。
この小休止により、オランダは続く10年間のうちに国境線を回復して安全を確保するまでに至った。
目先の圧倒的な破滅の危機が遠のいたことを受け、ホラント州は財政システムの再編成に取りかかる。
経済の回復に伴って税収が徐々に増加していったため、ようやく、州全体の統一税へとシステム変更した結果が表れてくる。
ホラント州として安定収入が見込めるようになり、失われていた信用は着実に回復していったのだ。
これにより州は、償還可能年金の金利を1590年時点の12%から、1597年には8.3%へと引き下げることに成功した。
1609年、スペイン帝国と12年休戦条約を結ぶと、州はさらに財政再建を推し進める。
戦時中に軍人や商人へ発行していた高金利の短期手形を、償還可能年金に強制変換させる強硬策に出た。そして償還可能年金の金利を6.25%へと引き下げたのである。
当然、強硬策は利息が減ることを拒否する投資家たちの激しい抵抗に遭った。しかし最終的には完全に施行された。
投資家たちにとって最も忌避すべきことは、金利が低下することよりも投資先のない現金が手元に残ることだったからだ。
短期手形や償還可能年金は、州政府の都合で全額返済ができる。利下げを飲まないなら元本ごと突き返す。
この道理により投資家たちは沈黙するしかなかったのだ。
ただし州政府は強硬策に出る一方で、投資家たちの立場を尊重する懐柔策も打っていた。
それは年金を転売する際にかかる譲渡税(3.3%)の免除だ。
投資家たちは投資先のない現金が手元に残ることを嫌う一方で、即時の現金化を好む傾向があった。
そのため強制変換の結果受け取った償還可能年金は、転売にかかる税金を免除とすることでデメリットを低減させたのだ。
4.戦争第2期(1621~1648年)
このように安全保障と経済の回復、税制システムの強固な構築により、金利を大幅に低下させることができた。
このまま戦争が収束していれば、州の借金を堅実に減らしていけた可能性すらある。しかしそのような理想的な未来は来なかった。
再び戦争が激化したのだ。
膨大な軍事費が必要になり、税収のみでは財政健全化は不可能になってしまった。このことを如実に表しているデータがある。
債務総額は1621年の約1,900万ギルダーから1648年の約1億3,000万ギルダーへと約7倍に達した。(図1)
さらに、終戦を迎える1648年までに税収に対する債務残高の比率は「1:12」にまで急増した。
つまり、ホラント州は公債を発行し続けたのだ。しかし公債を発行し続ければ利息も増加し、さらに財政を圧迫する。
ジレンマを抱えながらも、この期間(1621~1648年)一度も債務不履行に陥ることなく戦争を乗り切った。
その資金調達の主力として再び短期手形が登場する。これは現代の金融理論から見ると奇妙な例外状態なのだ。
短期手形は契約上こそ半年〜1年期限だが、実質的には購入者が望むタイミングでいつでも元本返金の請求が可能だった。
つまり州政府からすれば、いつ解約されるか予測できず一瞬で債務不履行に陥ってしまう危険性が常時あったのだ。だからこそ、過去に短期手形を償還可能年金へ強制変換させた経緯があった。
この例外状態を約20年間も継続できた理由は2つある。
1つ目は投資家側の状況だ。
戦争中であるにもかかわらず、東インド会社の例を筆頭にホラント州の市民は貿易によって資産を文字通り倍増させていた。大量に蓄財していたのだ。よって情勢不安であっても、公債を解約して利息を受け取る権利をなくし、現金を保管しておくインセンティブがなかった。
とはいえ、その豊富な資金の投資先として終身年金や償還可能年金は忌避された。貿易へ投資する事業機会が来れば、すぐに現金化して商売に回せるという安心感が欲しかったのだ。結果として、投資家は流動性の高い短期手形を好んだ。
2つ目は徴税官の奮闘だ。
上記のように投資家側から解約される可能性が低くても、短期手形の満期は最長で1年。
期日が来れば元本に利息を乗せて全額を一括返済しなければならない。だが現実には、調達した資金はすでに軍事費として使い果たされていた。
そこで、短期手形の売却を担った徴税官が登場する。彼らは、税収のキャッシュフローを完璧に把握していたと推測される。
そして、現金が入るタイミングに合わせて、短期手形を発行する日付を顧客ごとに細かくずらし、満期日を分散させていたと考えられるのだ。
また、満期日の交渉によってそもそも元本を返済しないことにも成功している。
つまり、満期と同時に元本プラス利息分の短期手形を再契約させるよう仕向けることで実質的な支払いを最小限に抑えたのだ。
実際、この期間(1621〜1648年)に増えた州政府の純債務額は、同じ期間に支払った利息の総額とほぼ同じだった。
さらに1640年にはこんな州政府の試算があった。
累積債務は9,400万ギルダーに達していた。しかし短期手形の再契約を希望しない人は少ないため、「手元にわずか80万ギルダーの現金があれば払い戻し対応には十分だ。」というものだ。
これは、利息の支払いを抑えるために短期手形の金利を6.25%から5%に強制的に引き下げるための試算だった。
実際、金利引き下げを断行しても投資家からの大きな反発は起きなかった。当時は経済の成熟期に入りつつあり、民間での有利な代替投資先が枯渇していたからだ。(なお償還可能年金の金利もあわせて5%に引き下げている。)
5.結言
今まで見てきたように、金融理論から見る奇妙な例外状態は投資家の余剰資産と徴税官の地元密着によるキャッシュフロー管理によって成り立っていたのだ。
これによって、冒頭の「借金を膨張させながらも金利を下げていくことができた特異性」が達成されたのである。
もちろん、州政府の財政制度が統一税となったことにより、安定した収入による信用度の上昇はあった。
ただし、制度はあくまで財政体質の成功を収めるための必要条件だ。十分条件は、投資家の余剰資産と徴税官の地元密着によるキャッシュフロー管理だった。
こうして、ホラント州は独立戦争のあいだであっても財政的に成功をおさめて乗り越えた。
しかし、このあとイギリス・フランスと断続的に戦争が勃発する中で再び財政難に立ち向かう必要があるのだが……
それはまた別の話。